「春にして君を離れ」雑感ネタバレ

アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」を読んだ。

 

以前から興味があった。それは、アガサ・クリスティーの作品の中で非ミステリーであると知っていたから

 

そして、小沢健二に「春にして君を想う」という曲があって、それの元ネタだと思ったから(実際、小説を読むとこのタイトル自体シェイクスピアの戯曲からの引用だとわかるのだが)。

 

で、読んだ。ものすごく悲しい小説だった。

しかし、最後の栗本薫の解説を読んで、疑問を感じた。

僕の解釈では、この小説の主人公ジョーンの最後の選択は、限りなく誠実なものに思えたのだが、解説を読むと、彼女の最後の選択はまるで間違っているーーとまでは言わないまでも、結局最後は自分と向き合えなかった可哀想な人という解釈をしているように読めたからだ。

他の方の感想を読んでも、おおよそそのような感想をもっている人が多いようだ。

 

僕には正反対に思えるので、ちょっと暇つぶしにでも書いてみたい。

 

ストーリーはけっこうシンプルだ。というか、相当省きます。

 

主人公ジョーンは優しい夫、よき子供に恵まれ、なんの不自由もなく「完璧な母、妻」としてイギリスで暮らしている。だが、末の娘が、嫁いだ先のバグダッドで急な病におかされてしまう。娘や娘の旦那だけでは、この危機を乗り切れないだろうと判断したジョーンはバクダットへ向かい、娘を看病した後、またイギリスへの帰路に着くのだが、途中大雨が降ったせいで、砂漠しかない街で何日も足止めを食らってしまう。

 

そして、彼女はその数日間の時間に自分の人生を見つめ直すことになる。完璧な妻、完璧な家庭を築いた自分の人生を。すると、どんどんおかしな記憶が出てくる。街でやり手の弁護士である夫が、本当は農業をしていたかったこと、完璧であるはずの子供たちが、なぜか父親にだけ懐いてきたこと、彼女はそういった事柄を全て自分が妻として、母としての要領の良さやしつけの厳しさに由来すると考えていたのだが、しだいに本当は違うのではないか、と思い始める。

心から愛している夫の夢を無理やり諦めさせたのは自分ではないか、あまりの無理解から、子供たちからはまったく愛想を尽かされているのではないか。最終的に、自分は、あらゆる周囲の人々の人生を犠牲にし、搾取し、一方的に愛という大文字の正義を振りかざし、誰のことも本当の意味では思いやることも、顧みることもなかったのではないか。

 

そして、終盤、それらの「真実」に気づいたジョーンは家族に謝ろうとする。が、家の扉のチャイムを鳴らすその瞬間、彼女には二つの選択に迫られる。自分の気づいた「真実」は砂漠の街にうかされた妄想だったのではないか、やはり私は完璧な母であり妻だったのではないか。

謝るべきか、今まで通りの自分でいるべきか最後の選択が迫る。

「ロドニー(夫)、赦してーー知らなかったのよ!」

「ロドニー、ただいま…今帰りましたのよ!」

 

彼女は結局後者のセリフを選ぶ。そして、今まで通り、無理解で、家族に疎まれる女として人生を終える。

 

ご丁寧なことに、この後夫、ロドニーの視点から、彼女が気づいたことは全て真実であったことが読者にはわかる。つまり、ジョーンは家族に疎まれ、誰からも相手にされていないことを。

 

この結末を読んで、僕はジョーンはなんて誠実なんだろうと思った。そしてなんて悲しいのだろう、と。

 

僕が見る限りにおいて、他の読者の方は、最後にジョーンは、気づきかけていた真実を放棄し、逃げてしまったというように解釈するらしい。

 

しかし、ほんとうにそうであろうか。

 

ジョーンは取り返しのつかない罪をしてしまったのだ。それを、家族に謝るだけで赦してもらおうなんて虫が良すぎはしないか。謝ろうが、泣こうが、もうロドニーの夢は、すぎてしまった過去は戻ってこないのだ。

 

であるからこそ、彼女は、(たとえ無意識的であれ)いつものジョーンであるという選択を取ることで、自らへの救済を永遠に絶ってしまったのではないか。

 

真実に気づいた赦しよりも、永遠に赦されることのない苦しみで持って、家族に最大限の誠意を見せたのではないか。

 

と、僕はそのように読めて仕方がない。

 

いずれにせよ、とても悲しい話だ。そして、身につまされる話だ。

 

ネタバレ全開でしたが、かなり雑にストーリーは紹介したので、おすすめです。

 

K君のこと

「Kは悪魔と出会い、神と契約を交わした」

 

K君は僕の大学の同期で、2浪しているから年は僕の2つ上。ドイツ人と日本人のハーフ。ものすごくイケメンで、有名なファッション誌でたまにモデルを務め、小銭をたくわえていた。大学1年生の時、僕が所属するサークルが主催する、今考えるとくそみてーなクラブイベントで出会った。彼は、浮き沈みはあるが基本的には非常に明るく、バッドテイストなユーモアの持ち主で、すぐに仲良くなった。

彼は思い込みが激しいたちだった。1年生の年末、夜更けに彼は突然僕の家を訪れた。「エイズになっちゃったよ〜〜〜〜」といきなり泣きながらまくしたてた。聞くとはじめてピンサロに行ってお口でよろしくやってもらったらしいが、その嬢の唾液からエイズに感染した、という。僕は唾液からHIVは感染しないこと、そもそも風俗系のお仕事をしている人は頻繁に病気の検査を受けているから、むしろ「行きずりの女性」より安心であることなどを説いたが、彼は泣くばかりで僕の話を聞かなかった。

数日後、スーパーの袋に野菜をこれでもかと詰めた彼がうちに寄ってきて、「検査したらエイズじゃなかったんだよ〜〜」と当たり前のことを神の祝福を受けたように言い、「カレー作ろうぜ!」とスーパーで買ってきた野菜をおもむろに出しながら、勝手に僕の部屋でカレーを作って帰っていった。

 

K君はアル中で薬物中毒でもあった。危ない薬をやっていることはみんな知っていたが、それでも彼は人気者だった。彼は人を元気にする才能があった。

 

保育士さん達と合コンをすると、「この中で子供超嫌いな人〜?」と聞いて自分だけ手を上げて場を氷づかせたのもおかまいなしに、焼肉用に持ってこられた生肉をそのままむしゃむしゃ食べながら「まっじー!肉生臭いよ〜!」と場の空気をさらに悪くした。僕は彼のそんな姿を見るたびに、「素晴らしい」と思っていた。

 

彼はある日悪魔に会った。

 

とあるクラブイベントで幻覚剤を摂取した彼に悪魔は話しかけてきたらしい。悪魔は彼の耳元で「そんな生活をしていてハッピーか?」とささやき、彼の下腹を殴った。

 

恐怖に打ち震えながら帰路にたつ彼を呼び止める人がいた。とある新興宗教の勧誘だった。彼は悪魔に会った日、神と出会った。

 

しばらくして彼は東京の実家にいたが、どうにもこうにも頭の騒音がうるさく、それを断ち切るために自転車で大学のある京都まで帰ることにした。途中で「自転車なんかで京都まで行ける筈がない」と悟り、自転車を川に投げ捨て、走って京都に向かった。自転車の方がまだマシなんじゃないか、などと言うのは愚問である。

 

京都までの道中、深夜、公園で彼はなにかをわめきたて、警察に保護された。迎えに来た父親に殴りかかり、気がついたときには精神科のベッドに縛り付けられていた。彼は統合失調症という病名をくだされた。

 

しばらく経った頃、偶然道で彼に会った。「久しぶりだな。飲みに行こうぜ」と誘われた飲み屋で彼はポンジュースを頼んだ。お酒はもう飲まないのか、と聞く僕に、「昔は酒とか、睡眠薬とか、いろんな薬がないと頭がざわざわしたけど、今はすごく安定してるんだ」と話した。

人を露悪的に馬鹿にし、薬物におぼれていた頃の彼は人気者だったが、更生し、神と出会った彼にはなぜか人が寄り付かなくなった。

 

「もっと昔みたいに変なことして俺を笑わせてくれよ」という僕に、はにかみながら「信じるものがあるから、これで十分なんだ」と言って、ポンジュースを飲んだ。

 

その日の夜、帰り道、なぜか蛍が一匹、僕の目の前で明滅していた。

なんでこんな日に、今まで見たこともない蛍が出てくるんだよ。

僕はその蛍を殺そうとしたが、かなわなかった。

 

 

 

K君は今、ドイツの片田舎で、日々、神のことを考えている。僕はなぜか裏切られたような寂しさを感じるが、その寂しさはひとりよがりなものだ。